特撰素材のルーツを探る
~鰻の食文化を支える特選素材~炭・醤油・味醂・庖丁・輪島塗
日本が誇る伝統食、鰻の蒲焼きには、それを支えてきたモノ達があります。
いずれも長い歴史に裏打ちされた、老舗産地の努力や匠の技が息づき、鰻の食文化の発展とともに歩んできました。数百年の歴史に思いを馳せてみることで、蒲焼きの味もより深いものになるかもしれません。
炭-和歌山県/紀州備長炭「中国から伝播した白炭技術」
蒲焼きに欠かせない炭。最高級とされる紀州備長炭は、高単価にもかかわらず、鰻の蒲焼専門店や焼き鳥専門店を中心に根強いニーズに支えられています。
炭には白炭と黒炭があり、白炭は300度の高温で炭化させた後、釜から出して、灰をかけ冷ましたものです。
黒炭は白炭より低温で炭化させ、釜の中で冷ましたものです。
紀州備長炭とは、紀州のウバメカシを用いた白炭で、硬度18~25度のものを指します。鉄よりも硬く、鉄のノコギリでは切れないので、ダイヤモンドを埋め込んだノコギリを使います。
そのルーツは平安時代、弘法大師が白炭の製法を中国から持ち帰り、高野山の開山に伴い、周辺に生えているウバメカシから白炭を作ったことがはじまりとされています。
江戸時代に紀州藩(現在の田辺市周辺)の炭問屋、備中屋長左衛門がウバメカシを用いた白炭を備長炭と名付け、その名が全国に広まりました。
太平洋沿岸の限られた地帯に生息するでウバメカシは、製炭技術の定着に伴った過剰伐採から減少していき、新たなウバメカシの産地である高知や宮崎も製法が広がっていきました。その結果、土佐備長炭や日向備長炭が生まれました。
ウバメカシは樹齢20~30年の樹が備長炭づくりには良いとされ、生長も早く保水力に優れているため、杉や松よりも植林に適しているそうです。
備長炭生産にかかる日数は約2週間、1トンのウバメカシから95キログラムの備長炭ができます。釜で10日間炭化させた後、3日間かけて冷却します。
醤油-千葉県/最大産地「古代中国に伝わる『醤』が原型」
万能調味料の醤油は、蒲焼きのタレを大きく左右する重要な役割を担っています。
ルーツは古代中国に伝わる、野菜(草醤)や魚(魚醤)、肉(肉醤)などの原料を塩漬け保存していた「醤(ジャン)」というもので、醤油は米・小麦・大豆を使用した穀醤が原型といわれています。
日本に醤が伝わったのは明らかではありませんが、奈良時代の大宝律令には、醤院(ひしおつかさ)という役所があり、専門につくっていたようです。
鎌倉時代、宋で修業していた覚心という禅僧が、1254年に宋で覚えた「径山寺(金山寺)味噌」の製法を、紀州・湯浅の村人に教えました。やがて味噌桶の上澄み液のおいしさに気づき、現在いう「たまりしょうゆ」になったといわれています。
黒潮によって紀州との交流が盛んだった千葉県の銚子で、1616年、ヒゲタ醤油の創始者田中玄蕃によって醤油づくりが始まりました。夏涼しく冬暖かな年間を通した適度な湿度、きれいな水が豊富、広大な関東平野が原料の大豆・小麦を量産できるなどの環境に恵まれていたことはもちろん、物流の面からも水運の良い利根川の河口に位置していたことが、銚子の醤油づくりを発展させました。同様に野田市も後に醤油産地として振興しています。 関東では、江戸っ子の嗜好にあった濃い味の醤油づくりが盛んとなりました。
蒲焼きのタレづくりは醤油のさじ加減によって大きく左右されます。醤油はJAS規格によって、「こいくち(濃口)」「うすくち」「たまり」「さいしこみ」「しろ」の5種類に分けられていて、蒲焼きのタレづくりに用いられるものは、中京地区ではたまりも使われますが、大半がこいくちとなっています。うすくちでは旨味成分が少なく、塩分が高く、また蒲焼きのおいしそうな色目が付きません。
味醂-愛知県/最大産地「最初はお酒、やがて調味料となった」
醤油のほかに、蒲焼きのタレに欠かせないのが味醂です。
関東の蒲焼き専門店では、醤油と味醂を同量で割った「同割り」のタレが最高級とされています。
味醂のルーツは諸説ありますが、有力なものは中国伝来説と日本発生説です。
中国伝来説は、明・清王朝のころの書に、「密淋(ミイリン)」と呼ばれる、甘いお酒(文字の意味より)があったと記述されています。これが日本の戦国時代に九州地方に伝わり、「密淋」や「美淋」という名で日本に広まったとされています。1649年の「貞徳文集」という書にも、「みりんは異国より渡来」という記述もあり、中国伝来説は最も有力視されています。
一方、日本発生説は1466年の「蔭涼軒日録」という書に、「練貫酒(ねりざけ)」という甘いお酒があったと記述されていることが根拠となっています。もともと古くから甘酒、練酒など甘いお酒があったということもあります。これらのお酒は、米や麹を加えるとアルコール度数が下がり、腐敗しやすく、それを防ぐため焼酎が加えられ、やがて本味醂になっていきました。
本格的に広まったのは江戸時代のことで、どちらにしても最初は甘いお酒として、女性でもお酒を苦手とする人でも楽しめるもののようでした。老舗産地の愛知三河、ほかに京都伏見、千葉流山などが味醂産地といして知られ、近くに港があること、原料が調達しやすい稲作が盛んな地域を抱えていることが味醂づくりに適していました。お酒として飲まれていた味醂は、料理のコクや旨みを引き出し、上品な甘みに仕上げる調味料として次第に使用されるようになっていきました。
味醂の原料はもち米、米麹、米焼酎で、「米一升、味醂一升」といわれるように米の量だけ味醂ができます。醤油など醸造調味料との相性が良く、上品な甘さやこくのある旨み、てり・つや、きれいな焼き色を付けられる上、焦げることでさらに香ばしい香りを生む味醂は、蒲焼きの味を一段と高めています。
庖丁-東京都/老舗メーカー「鰻職人の命といえる裂き庖丁」
鰻職人の修業を表す言葉、「串打ち三年、裂き(さき=割き)八年、焼き一生」。
8年の修業を要する鰻を開く技、それに欠かせない調理器具が庖丁です。
庖丁のルーツは紀元前100年にまで遡る前漢時代のこと、当時記された「荘子」には、庖丁(ホウテイ)と呼ばれる料理人のことが記述されています。庖は調理場、丁は召使いを表し、庖丁は調理場で働く男、という意味です。この男が見事な刀さばきで王に褒められ、その刀を庖丁といったことが起源とされています。
鰻の裂き庖丁は、一般的に東京型、大阪型、名古屋型、京都型があり、「関東の背開き、関西の腹開き」という調理の違いに合わせて、合理性や使いやすさからそれぞれの形になっているといわれています。
裂き庖丁は、地鋼(ぢがね)といわれる軟鉄、そして刃鋼(はがね-庖丁の切れる部分)といわれる鋼鉄の2種類から作られています。1200℃の火の中に、地鋼を入れ真赤に焼き付け、叩いて伸ばし、庖丁の形にした後、刃鋼を乗せて叩いて合体させる鋼付けをし、焼き入れ、研ぎ、柄付けの工程を経て完成します。庖丁の仕上がり如何が、鰻を裂く手際に影響し、強いては蒲焼きになったときの見栄えをも左右するそうです。
鰻庖丁は「一生もの」という職人が多く、一生使い切るには、“裂き”と、庖丁を“研ぐ”高度な技術が必要といわれています。ベテランの鰻職人のほとんどは2本の庖丁を持っていて、鰻の大きさによって重さの異なる庖丁を使い分けたり、夏の繁忙期には庖丁を研ぐ時間もないほど忙しいからといいます。
輪島塗-石川県/発祥地「工程は120以上、重要無形文化財の技」
輪島塗は約600年以上の歴史を誇る日本の伝統工芸であり、堅牢で美しい高級実用漆器として愛用されています。この高価な輪島塗の丼や重箱は、鰻専門店の格付けに欠かせない器物といわれています。
「木地づくり」「下地塗」「中塗」「上塗」「加飾」などの工程や手数は120以上もあり、工程ごとに「木地師」「下地塗」をはじめ、「研師」「蒔絵師」「沈金師」「呂色師」など多くの職人の技が集約され、堅牢な実用品にとどまらず、優美な色と形は芸術品とまでいえる存在です。
産地として名高い石川県輪島市の近辺では、漆や「地の粉」(輪島塗の下地に用いられる)など豊富な原材料や、漆器生産に適した気候に恵まれ、古くから寺や神社のお椀やお膳を作ったことが輪島塗のはじまりとされています。17世紀後半(寛文年間)には、輪島塗を堅牢にする技術が確立され、また生産地域として組織化を進め、生産工程の規程をはじめ、価格や販売区域を協定し、さらに徹底した品質管理を行ったことで発展を遂げました。
輪島塗に欠かせない漆は、うるしの木の樹液から採取され、1本の木から採れる量は約150グラム、碗にして数個分です。乾くと堅牢になり光沢感が生まれます。日本では古来より、塗料や接着剤として使用されてきました。堅牢さを特徴づける素材として、輪島で産する珪藻土からできる地の粉があげられますが、下地塗の際、漆に地の粉を混ぜて木地に2回、3回と塗り重ねていきます。
輪島塗はその堅牢さに加え、破損した際には修理を施し、再生できることから、 「一生もの」といわれています。