うなぎに関する豆知識

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うなぎ“食”の歴史とその効用

縄文時代の遺跡から骨が出土

うなぎ

四面が海の日本では、水産生物は捕獲しやすく、海水魚や貝類、また淡水魚など200~300種の出土物があり、鰻の骨も縄文時代(紀元前8、7000年~紀元前200年頃)の遺跡から出土しています。
どのような調理法で食べていたのかまでは不明ですが、鰻の血液中には毒素があるため、舌を刺すような味と生臭さで生の状態では古代人といえども無理なようですから、火を用いるようになってからのことといえそうです。

滋養に、また薬のように扱われた時代

薬箱

万葉集(4~8世紀)には、有名な大伴家持が、病弱な知人石麻呂に送った歌が載せられています。
「石麻呂に吾れもの申す夏痩せに吉しという物ぞ武奈伎(ムナギ=うなぎ)とり食せ(めせ)」
「石麻呂よ、夏痩せによいという、うなぎをとって食べなさい」

と勧めています。
地方の物産や伝説を収録した風土記(715~733年)の、水産物が記されている中に鰻も入っています。
醍醐天皇(885~930年)が選集させた薬物の書の中に、水産生物としてムナギ(ウナギ)があげられています。
室町時代(1338~1573年)の料理書には、蒲焼きは鰻を蒲の穂(がまのほ)状に丸のまま焼く、とあります。

蒲焼きという名前の由来

蒲焼き

なぜ「蒲焼き」というかについては諸説ありますが、焼けた皮の色が樹木の樺の幹に似ているという説。あるいは江戸時代の戯作者として有名な山東京伝が 主張する、焼く匂いが素早く行き渡るから香疾焼(かばやき)という説。
最もよくいわれる説は、古くは頭から尻尾に串を刺して塩焼きにしていた様子が、植物の蒲(がま)の穂に似ていることから「蒲(がま)焼 き」と呼ばれたというものです。

鰻のおいしさを追求するようになった江戸後期

鰻のおいしさを追求

江戸元禄時代以降に寿司、天ぷらなど日本料理の基礎が確立されました。
江戸時代後期に関西で、現在のように開き、薄口醤油とタレを付けて焼くようになったといわれています。
その後、江戸に伝わり、濃口醤油とみりんを使ったタレになり、現在の味が完成したようです。
人気商品となった文化・文政期から嘉永期には、「江戸前大蒲焼番付」という人気店の紹介本も発行されました。寿司によくいわれる「江戸前」という 言葉は、もともとは鰻に用いられていたものです。後に江戸前は江戸城の前面の海「前海」から江戸の河川、利根川河口まで、「江戸の後 ろも北側も」すべてを含むよう拡大解釈されていきました。当時は隅田川の蔵前、深川で捕れた鰻が、上物とされていました。

日本一の産地愛知県一色町初のうなぎ料理専門店 うなぎ割烹 みかわ三水亭
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