うなぎに関する豆知識

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うなぎにまつわる伝説やエピソード

十円の鰻

十円の鰻

西郷隆盛が隠棲していたときのこと、出かけた鰻屋で飯を食べ、「お金をおいておいたよ」といって帰っていきました。
鰻屋の主人が確かめてみましたが、一文もおいてありません。大急ぎで追いかけて、「甚だ恐縮でございますが、お代がおいてありませぬようで」というと、「確かにおいてあるから見ろ」とずんずん帰ってしまいました。主人も変に思っていろいろ調べてみると、十円札が鉢の裏へ飯粒で貼ってありました。十銭もあればたくさん食べられる頃ですから、驚いた主人は返そうと西郷さんのもとに持参すると、「取っておいてください。ちょいちょい書生が厄介になるそうだから」といったとか。
西郷さんは書生達の食い倒しを知っていたのでした。

抜鉾大明神

群馬県高崎市菊地町には、「うなぎは神様。食べると何か恐ろしいたたりがある」という言い伝えがあります。町の鎮守様、抜鉾大明神にまつわる奇妙な伝説は、次のような話です。
昔、天然痘(ほうそう)が大流行したとき、この地に住む松本三右衛門という農夫の子ども二人がほうそうにかかり、重篤になりました。そんな夜、日頃から抜鉾神社を熱心に信心する農夫の枕元に、神の化身の翁が現れ、「そなたの平素の心掛けを思い、子どもの難痘を鰻に移して治してしんぜよう」といって消えました。数日後、子どものほうそうはすっかり治り、不思議に思った農夫が池の鰻を見ると、鰻の全身にほうそうの白い斑点ができていました。 その後、霊験あらたかな神社として噂が広まり、全国各地から参拝者が訪れ、村は大いに栄えました。以来、村人は決して鰻を食べず、「おうなぎ様」と呼び信仰しました。
さらにこんな話もあります。神社の神事の際、子どもが切り株で目を突き、神社の池で目を洗ったところ治ってまい、以来池の鰻は片目になりました。また、豊富な鰻を目当てに漁に来た商売人が、カゴいっぱいに獲ったはずなのに、気が付くと一匹もおらず、大木に生首が下がっていました。腰を抜かした商売人は、やっとのことで家に帰りましたが、それ以後、菊地に鰻を獲りに来る者はいなくなったとか。
菊地の住民は、戦後の食料難の時代にも鰻を食べることはなく、他の町へ嫁いだ女性も同様だったといいます。

女の神様を救った大鰻

女の神様を救った大鰻

山梨県武川村山高の幸燈宮の祭神、稚日霊女尊(ワカヒルメノミコト)は、女神ながらも武勇並びなき軍神として、人々の尊崇を受けていました。
あるとき、沼の辺りで敵の大将と組み討ちをするうちにすべって沼へ落ちてしまいました。沼は思いのほか泥が深く、神様は岸へ上がることができず困っていました。そのとき、直径20センチメートルもある大鰻が現れて、神様を押し上げました。神様は無事に岸に上がり、戦いに勝利することができました。
鰻が神様を助けたので、山高の村人は、鰻を食べると神罰があたり、片目がつぶれるといい、食べる者はいなくなりました。もし、鰻が獲れても社前の池に放すといいます。

鰻になった王様

ポリネシアのサバイイ島に、付近の島々にも広く知れ渡るシナという美少女がいました。
フィージー島の王様は、シナをぜひ妻にしたいと、魔法で自分の姿を鰻に変え、サバイイ島に渡りました。そしてシナが水汲みにやって来たとき、顔を出すと、シナは、「可愛い鰻だこと」とすくって持っていき、家の中の水槽に入れました。
飼っているうちに王様の鰻は、だんだん大きくなったので、シナは近くの沼に放してしまいました。
さらに大きくなった鰻は、シナのあとをつきまとうようになったので、困ったシナはウボル島という島に逃げました。それでも鰻は追ってきたので、シナは酋長に助けを求めました。鰻ははじめて声を出して、「美しいシナよ、私はフィージー島の王様である。おまえを妻にしたいとやって来たが、魔法の力を失い、人間に戻れずまもなく死ぬ。そしたら私の頭を切り落とし、おまえの家の前に埋めなさい。1本の木が生え実がなったら、その汁を吸ってくれ。私へのくちづけになる。」と告げました。
シナが涙ながらにいう通りにすると、鰻のように細長い木が伸びてきました。これが世界で最初のヤシの木だったということです。

猪苗代湖の王

猪苗代湖の王

昔むかし、福島県三城潟村の庄屋さんの所に、給金はいらないから使ってくれと、一人の凛々しい若者が訪ねてきました。
庄屋さんはちょうど田植えの時期だったので、使ってやることにしました。若者はどんな仕事も不平をいわず黙々と働きましたが、身の上話は一切しゃべりませんでした。
夏のあまりに暑い日、庄屋さんは、「昼寝でもしておいで」というと、若者は自分の部屋に入っていきました。時間が過ぎても起きてこないので、庄屋さんが部屋をのぞいてみると、何と大蛇が青黒いウロコを光らせて寝そべっていました。驚いた庄屋さんは、まさかと思いながら気づかれないよう部屋に戻ると、若者が入ってきて、身の上話をはじめました。
自分は猪苗代湖に何百年も住む主の大蛇で、平和に治めていたところ、いつからか鰻が住みついて自分が主だとあばれまわる。しばらく様子を見るため、若者に姿を変えてここでお世話になっていた、ということでした。
「明日は鰻と決闘します。私が勝ったら、湖一面ヤツの血で赤く 染めてみせる。どうかお達者で」と言い残し去っていきました。
そして明朝、湖は真っ赤に輝いていたといいます。

孝女と鰻

寛文11年(1671)夏、大和国北葛城に竹の内村という人里があり、貧しい百姓の家に16歳の姉、伊麻と、10歳の弟がいました。
伊麻はある店に下女として働いていましたが、毎夜食事の後、雨の日も風の日も必ず家を出て行くので、店の主人は愛しい男に会いに行くのではないかと、ある日伊麻を問いつめました。すると、年老いた父親の機嫌を見にいくと答えたので、その親孝行な心に感心し、自家の側に小屋を与えて父親を住まわせてやりました。
父親が医者も見離す疫病に患ったとき、伊麻はせめて父親の食べたい物を食べさせたいと尋ねたところ、父親は鰻が食べたいといいました。しかしお金のない伊麻は、鰻を食べさせてやれません。頼む人もいませんでした。
あるとき、前の川から水を汲んでおき、夜になってから水瓶から音がするので、姉弟が不思議に思って見ると、水瓶で大きな鰻があばれていました。二人は喜んで焼いて父親に食べさせると、疫病も日々良くなり、とうとう全快してしまいました。
それから伊麻が水を汲みに行く毎、水瓶に鰻が入っているようになりました。疫病になって生死をさまよう村の人々が、伊麻から鰻を分けてもらって食べると、みんな病気が全快しました。
伊麻の親孝行に、天が与えてくださった奇蹟であろうと人々はいいました。

鹿児島の鰻温泉

鹿児島の鰻温泉

人名研究家の佐久間英氏によると、薩摩半島の南端、開聞岳のふもとに鰻池があり、岸の一カ所に温泉が出て、それを鰻温泉というそうです。
西郷隆盛が大いに愛用したそうで、この部落の69世帯が「鰻」という名字、30世帯が「福村」という名字であったといいます。
鰻という名字のほうは、来訪者に笑われたり、反対に部落から出かけたとき具合が悪かったりします。
本家の鰻だの、新屋の鰻だの、山の鰻だの、川の鰻だのの呼び名で区別するのもどうかということもあり、15軒が鰻姓を改称しました。
しかし鰻姓がいいと堅持している家が18軒あるそうです。
もともと鰻姓は、お殿様が立ち寄った際、鰻池で獲れる鰻のあまりのうまさに、以後鰻を名乗れとおおせになってからとか。今でもここの鰻料理は大変うまいそうです。

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