うなぎのおもしろ情報
- 鰻は山芋が変じたもの?
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江戸時代の百科事典「和漢三才図会」には、鰻の蒲焼きの煙の効能が以下のように記述されています。
「鰻を焼く煙にて蚊をいぶせば、蚊にならず水となる。畳や屋舎の木を燻んずれば虫を断つ。骨を衣の箱に置けば諸虫を断つ」。そんなまさか、といいたくなる効能ですね。
鰻は日本だけでなく古今東西、謎の多い魚で、中国では「雀が海中に投じて蛤となり、山芋が変じて鰻になる」といういい伝えがあります。
西洋では古代ギリシアの哲学者アリストテレスが、自身が編集した動物分類学の中で「鰻は交尾したり、卵から生ずるものではなく、泥中から自然に湧くもので、人間の探求できるものではない」と記述し、解明にさじを投げてしまっています。
鰻の生態や生活史については、現在も解明されていないところが数多く残されています。「山の芋 うなぎに化ける法事をし」(誹風柳多留)
(鰻は山の芋が化けたものだから、生臭いものを食べない法事なのに、山芋だから料理に出ても大丈夫、ということを詠んだ川柳) - 鰻の七不思議とは
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- 卵を見た人がいない(産卵場所は次第に解明されている)
- 人工孵化ができない(人工孵化は成功しているが成魚まで育たない)
- 仔魚の生活が分からない(レプトケファルスが何を食べていて、どのような体の仕組みで河口に近づくのか)
- ウロコがない(皮下に埋没している)
- 長寿(50年以上生きられる)
- 鰻のぼりの遡河力(ナイアガラ瀑布も遡上する)
- 食として不老強壮の効果(優れたバランス栄養食)
- 鰻研究の始まり
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鰻が謎に包まれているのは、古代から年に何万尾もの鰻が、人間の手によって開かれてきたのにもかかわらず、卵を見た者がいないところに原因があるといいます。
16世紀、中国の学者が「鰻はオスだけ」として以来、世界の鰻研究はなかなか進みませんでしたが、18世紀、イタリア人が「鰻から卵巣を発見した」と発表しました。
19世紀にはオーストラリアのシルキスという学者が、鰻の腹に働きの分からない器官を発見し、シキルス氏管と名付けられました。
その後、ドイツのヘルミスという学者が、このシキルス氏管の中に精虫を発見したことにより、初めて鰻に雌雄があることが判明されました。 - 鰻の遡河は「鰻のぼり
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シラスは夜、満ち潮にのって河をのぼり、のぼり始めると、いかなる障害があっても、自身の生息に適した場所まで前進を続けます。
例えば、中国では揚子江の河口から、上流の四川省まで2,000キロメートルも遡ることもあります。またアメリカではミシシッピー川をどんどん北へ遡り、そしてナイアガラ瀑布をまさに「登り」、ついにはエリー湖に行き着くというくらいのもの凄い遡上力をもっています。
「鰻のぼり」とは、株価や物価などが急上昇するときによく例えられますが、他の追随を許さないパワーを秘めています。
しかし、一旦適正な生息場所を定めると、縄張りの範囲は狭く、半径100メートル程といわれています。 - うな丼の元祖と割り箸の元祖
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うな丼はどうやって生まれたのでしょうか。 うな丼の元祖といえるのは、江戸時代文化年間(1804~1817年)、日本橋の芝居小屋が並ぶ堺町に、芝居の興行者に金貸しをしていた大久保今助という者といわれています。
鰻が大好きな今助は、日本橋葺屋町にある鰻屋の大野屋に毎日出前をさせていました。当時、鰻の出前は温めたヌカの上に鰻を乗せ、冷めないようにしていましたが、ヌカが鰻に張り付くため、おいしく食べられません。そこで考えた今助は、「熱い飯を丼に盛り、飯の間に鰻を挟んで持ってきてくれ。鰻は冷めないし、飯はタレが染み込んで旨くなる」と大野屋に頼みました。大野屋はそれから、「元祖鰻めし」の看板を掲げ、繁盛したといいます。
割り箸の元祖も鰻屋といわれています。文化文政の頃(1804~1829年)、江戸の鰻屋に竹製の割り箸が登場したのが最初。「引き裂き箸」、「割りかけ箸」と呼ばれました。割り箸は滑らないので、串から外した蒲焼きを裂くのに、都合が良かったと思います。 - 江戸前鰻と旅鰻について
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今では江戸前というとお寿司のイメージがありますが、江戸っ子にとって「江戸前」といえば鰻の蒲焼きのこと。
もともとは鰻に用いられていた言葉です。では、江戸前とはどの辺りかというと、「大川の東、お城の西」、現在の築地から鉄砲洲にかけての辺りで、築地は当時、隅田川の下流で、大川に接していて、鰻がよく獲れたそうです。ほかの所から入ってきた鰻は「旅鰻」といって品質が落ちるものとされていました。
ですから、辻焼き(屋台のようなもの)の安い鰻は、全部旅鰻だと皮肉った川柳もあったくらいです。
江戸前の鰻は深川、神田川で獲れたものが上質とされていたほか、蔵前で獲れる鰻も、米蔵からこぼれる米粒を食べているので肉付きがよく脂が乗っていると人気があったとか。
有名な鰻屋では、江戸前鰻が不漁で入荷しないときは、何日も休業したほどで、それがまた客の信頼を呼ぶという、人々の江戸前へのこだわりも大したものでした。 - 「土用丑」の春木屋元祖説
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土用丑を鰻の日とした元祖は平賀源内説が有名ですが、その説と並んで信憑性の高いものとされるのが、春木屋善兵衛の話です。
文政年間(1818~1829年)に出版された、当時のグルメマップ「江戸買い物独り案内」にも、春木屋我「丑の日元祖鵜」として紹介されていたそうです。
深川八幡前の鰻屋「宮川」の主人で文人でもあった宮川曼魚が、鰻に関する文を新聞などに寄稿していたところ、春木屋善兵衛の孫という老婦人が訪ねてきて、元祖というのは本当であると語ったそうです。
その話というのは、「あるとき、藤堂様のお屋敷から、旅に出るときにお持ちになりたいと、大量の蒲焼きの注文をいただきました。祖父は子の日、丑の日、寅の日の三日に分けて鰻を焼き、土蔵に貯蔵しておいたところ、丑の日に焼いた鰻だけが、どうしたわけか、色合い、風味とも変わっていなかったそうです。それで丑の日に焼いた鰻を藤堂様にお納めし、お褒めをいただいたと、祖父から聞いております」。
以来、春木屋は「土用丑の元祖」の看板を掲げていたそうです。 - 蒸しの技術とタレの開発について
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長い間、鰻は筒切りを串に刺して焼く調理方法でしたが、腹を開いて金串を刺し、タレを付けて焼くという革命的な調理方法が関西で開発されました。江戸に伝わったのが正徳年間(1711~1715年)といわれています。
江戸でも当初は関西と同じ方法で焼いていましたが、関東の鰻は脂肪が多く肉も堅いため、新たに「蒸し」の技術が加わりました。
流れのゆるやかな河川を下るために大きく肉も堅く、川魚臭も強い関東の鰻も、蒸すことで柔らかくなり臭みも抜くことができました。
腹開きの関西に対し、武士が力の大きい関東では、「切腹」を連想するため、背開きになったといいますが、「蒸し」をする際、背開きで串を四本刺しにするのに都合がよいということもあるようです。
そして、蒲焼きのおいしさを決定付けたのがタレの開発です。それまで醤油に酒を加える程度だったものが、関東の濃口醤油とミリンの普及により、蒲焼きのタレも旨味と風味と照りを一段と増し、ついに「江戸前大蒲焼き」が完成しました。 - 古典落語 うなぎの幇間 ~鰻の値段
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昔、宴席などで旦那衆の機嫌を取り、滑稽な動作や言葉などで座をにぎやかにする職業があり、それを幇間=たいこ持ちといっていました。
落語のあらすじは…
夏の暑い日、一八というたいこ持ちが、飯にありつこうと旦那を探していたところ、何とか旦那を見つけ、うまいこと鰻屋の二階に上がり込むことができました。酒を飲みながら、運ばれてきた鰻に箸を付けはじめたころ、旦那がはばかり(お手洗い)に立ち、なかなか戻ってきません。
一八がはば かりに迎えにいくと旦那は帰った後。一八は二人分の酒と鰻の代金を 払わされた上に、旦那がみやげに持ち帰った六人分の鰻の代金まで払わ され、なおかつ、自分ののめり下駄(前部の裏面を斜めに切り落とした粋な駒下駄)を旦那に履いていかれ、残された薄汚い下駄を履いて帰らされたという間抜けな話です。旦那の方が役者が上、ごちそうになろうとした鰻の値段は高くつきました。明治時代の中頃の実話にもとづいて作られた落語だそうです。